エピソード記憶とは?
「エピソード記憶」(episodic memory)とは、長期的に脳内に残る、個人が経験した出来事に関する記憶のことです。例えば「ラーメン屋で餃子を頼んだ」、「夏休みにセブ島に遊びに行った」、「ポケモンGOをしていたら人にぶつかった」などがこれに相当します。また体験が生じたときの周囲の状況や、そのときに抱いた感情などもすべてひっくるめてエピソード記憶に含まれます(→出典)。
人間の場合、日記という形でその日あった事を記録に残したり、「人生で1番恥ずかしかった事は何?」と尋ねることで、脳内にエピソード記憶が保持されていることを簡単に証明することができます。しかし言語を持たない動物において証明することは意外と難しく、「動物たちもエピソード様記憶(episodic-like memory)ならもっているかもしれない」といった中途半端な解釈にとどまっているのが現状です。例えば犬をドライブに連れて行ってあげても、犬がその体験をエピソード記憶として脳内に保持してくれているかどうかは、実際のところ分からないのです。
エピソード記憶の重要な特徴の1つとして「偶発的記銘」(incidental encoding)という側面があります。これは「周囲の状況を覚えようと意識していないにもかかわらず、時間が経ってからその状況を思い出すことができる」という記憶状態のことです。例えば「昨日の朝ご飯は何?」と聞かれて「トーストとスクランブルエッグ」と答えられるような状態がこれに相当します。朝食の内容を一生懸命覚えようとしたわけではないのにメニューを思い出せるのは、脳が自分の意思とは無関係に偶発的にエピソード記憶を作り上げているためです。
2016年、エピソード記憶が持つこの「偶発的記銘」という特徴を活かし、犬も人間と同じようにエピソード記憶を持っているはずだという仮説を証明するための試みが行われました。
NEXT:調査方法は?
2016年、エピソード記憶が持つこの「偶発的記銘」という特徴を活かし、犬も人間と同じようにエピソード記憶を持っているはずだという仮説を証明するための試みが行われました。
NEXT:調査方法は?
犬のエピソード記憶・調査方法
ハンガリー・エトヴェシュ・ロラーンド大学動物学部の調査チームは、犬のエピソード記憶を証明するため「偶発的記銘」という特徴を応用しようと思いつきました。具体的な調査手順は以下です。
もし犬が直前に見た人間の行動を再現できなかったら、「周囲の状況を覚えようと意識していないとき犬の脳内に記憶は残らない」 、すなわち「犬にエピソード記憶は無い」と判断されます。もし逆に、犬が直前に見た人間の行動を再現できたら、「周囲の状況を覚えようと意識していなくても犬の脳内に記憶は残る」、すなわち「犬にもエピソード記憶がある」と判断されます。
さて調査の結果はどうなったのでしょうか?
NEXT:テスト結果は?
犬のエピソード記憶テスト
- ステップ1犬に「真似してごらん」コマンドを覚えさせる
ある特定の行動を真似することに対して報酬を与え、「真似してごらん」(Do it!)というコマンドを出されたら、人間が見せた直前の行動を反復するよう犬を訓練しました。犬に対して「真似してごらん」というコマンドを出す事は、ちょうど「さっき見せた動きを覚えてる?」と質問しているのと同じ意味になります。 - ステップ2犬にとって初見の動きを見せた後「真似してごらん」コマンドを出す
犬がこれまで見たことがないと思われる、対象物に働けかけるような何らかの動き(初見の動き)を見せた後、事前の練習通り「真似してごらん」というコマンドを出します。この練習を繰り返すことにより、犬の頭の中では「人間が見せる動きに注目してしっかり覚えよう!」という意識が強くなります。 - ステップ3犬にとって初見の動きを見せた後「伏せ」コマンドを出す
初見の動きを見せるところまではステップ2と同じですが、今度は「真似してごらん」の代わりに「伏せ」のコマンドを出します。これを繰り返すことにより、犬の頭の中では「人間が見せる動きはもう覚えなくていいんだ!」という意識が強くなります。 - ステップ4動きを見せた後、犬が自発的に伏せの状態になるのを待つ
初見の動きを見せた後、犬が自発的に伏せの状態になることを確認します。自発的に伏せるということは、犬の意識の中に「直前に見た人間の動きを覚えなくちゃいけない!」という義務感がまったくないことを意味しています。つまり、偶発的記銘の条件である「周囲の状況を覚えようと意識していない状態」を作り上げたわけです。 - ステップ5意表をついて「真似してごらん」を命じてみる
ステップ4で「周囲の状況を覚えようと意識していない状態」になった犬に対し、意表をついて再び「真似してごらん」コマンドを出してみます。つまり、何かを覚えようと気を張っていなかった犬に対し「さっき見せた動きを覚えてる?」と突然質問を投げかけた形です。これはちょうど、友達に対して何の脈絡もなく「昨日の朝ご飯は何だった?」と尋ねるようなものと言えるでしょう。
もし犬が直前に見た人間の行動を再現できなかったら、「周囲の状況を覚えようと意識していないとき犬の脳内に記憶は残らない」 、すなわち「犬にエピソード記憶は無い」と判断されます。もし逆に、犬が直前に見た人間の行動を再現できたら、「周囲の状況を覚えようと意識していなくても犬の脳内に記憶は残る」、すなわち「犬にもエピソード記憶がある」と判断されます。
さて調査の結果はどうなったのでしょうか?
NEXT:テスト結果は?
犬のエピソード記憶・調査結果
オス6頭とメス11頭からなる17頭の犬を対象とし、基準ラインを確定するために事前に行われていたテストの成績と、ステップ5における成績が比較されました。以下はその結果です。
インターバルによる成績の違いに関しては、1分の時よりも1時間の時の方が悪くなりました。エピソード記憶の特徴の1つは、「時間の経過とともに薄らぎやすい」という点ですので、犬で見られた記憶のフェードアウト現象は、その記憶がエピソード記憶であったことの証拠ではないかと推測されています。 Recall of Others’ Actions after Incidental Encoding Reveals Episodic-like Memory in Dogs
Fugazza et al., Current Biology (2016), http://dx.doi.org/10.1016/j.cub.2016.09.057 NEXT:エピソード記憶を活かす
犬のエピソード記憶・テスト結果
- インターバル1分人間が犬に任意の行動を見せてから「真似してごらん」というコマンドを出すまでの間に1分のインターバルをおきました。犬が人間の動きを覚えることに義務感を抱いている状況と抱いていない状況とでは、正答率に以下のような違いが見られたといいます。
- インターバル1時間人間が犬に任意の行動を見せてから「真似してごらん」というコマンドを出すまでの間に、犬を車に入れたり犬小屋に入れるなどして1時間のインターバルをおきました。犬が人間の動きを覚えることに義務感を抱いている状況と抱いていない状況とでは、正答率に以下のような違いが見られたといいます。
インターバルによる成績の違いに関しては、1分の時よりも1時間の時の方が悪くなりました。エピソード記憶の特徴の1つは、「時間の経過とともに薄らぎやすい」という点ですので、犬で見られた記憶のフェードアウト現象は、その記憶がエピソード記憶であったことの証拠ではないかと推測されています。 Recall of Others’ Actions after Incidental Encoding Reveals Episodic-like Memory in Dogs
Fugazza et al., Current Biology (2016), http://dx.doi.org/10.1016/j.cub.2016.09.057 NEXT:エピソード記憶を活かす
犬にとってのエピソード記憶
ディズニーアニメのように犬が言葉を話してくれたら、エピソード記憶の証明など数分で完了します。しかし実際はそういうわけにはいかないため、ハンガリーの調査では「真似してごらん」という事前訓練と、エピソード記憶が持つ「偶発的記銘」という特徴を用いて回りくどい形で証明する試みが行われました。その結果、犬にもエピソード記憶があるようだとの結論に至りました。これを平たくまとめると、犬は自分にとって心地よいものや苦痛を与えるものだけを記憶していると思われがちだが、感情の起伏を伴わない無意味な情報もエピソード記憶として保持している可能性があるとなります。しかし、インターバルが1時間のときに成績が落ちたことから、エピソード記憶の持続時間は人間ほど長くはないのかもしれません。
エピソード記憶のメリット
犬のエピソード記憶は「味覚嫌悪」と呼ばれる奇妙な現象にも関わっているかもしれません。味覚嫌悪(みかくけんお)とは、食事をした後に具合が悪くなった動物が、直近に食べたものと具合の悪さをリンクして記憶し、以後口をつけなくなる現象のことです。直近の食事が半日くらい離れていてもこのリンクは成立します。
味覚嫌悪という現象は「犬は賞罰と直前の出来事しかリンクできない」と覚えている飼い主からすると奇妙に思えるかもしれません。しかし「犬にもエピソード記憶がある」という知見を持ち込むと、すんなりと説明がつきます。
つまり犬は下痢や嘔吐といった体調不良(罰)に出くわすと、直前の状況や行動ではなく、数時間遡(さかのぼ)った直近の食事をエピソード記憶の中から思い出し、それと体調不良とを結びつけるようにプログラミングされているということです。もし犬にエピソード記憶がなかったら、「散歩をしていたら具合が悪くなった!」というように、全く無関係な直前の事象と罰とを結びつけるかもしれません。これではまた同じものを食べて体調不良に陥ってしまいますね。
つまり犬は下痢や嘔吐といった体調不良(罰)に出くわすと、直前の状況や行動ではなく、数時間遡(さかのぼ)った直近の食事をエピソード記憶の中から思い出し、それと体調不良とを結びつけるようにプログラミングされているということです。もし犬にエピソード記憶がなかったら、「散歩をしていたら具合が悪くなった!」というように、全く無関係な直前の事象と罰とを結びつけるかもしれません。これではまた同じものを食べて体調不良に陥ってしまいますね。
エピソード記憶のデメリット
犬にもエピソード記憶があるということから、現在の賞罰と過去の出来事とを頭の中でリンクできると考えるのは早合点でしょう。例えば、留守番中にゴミ箱を荒らした犬に対し、「どうしてこんなことしたの!」と怒鳴り付けても意味がないと考えられます。なぜなら、仮に犬が「ゴミ箱を荒らした」というエピソード記憶を持っていたとしても、飼い主の怒りがたくさんあるエピソード記憶の中のどれに対するものなのかを判断する術(すべ)がないからです。これはちょうど、身に覚えがないのに急に友達が冷たくなった状況に相当します。自分のどの言動が相手の地雷を踏んでしまったのかは、なかなかわかりませんよね。
突如として飼い主から叱られた犬は、直前に行っていた行動と飼い主からの罰とを結びつけ、「玄関に出て飼い主を出迎えたから怒られたのかな?」と勘違いするかもしれません。これではしつけの意味が全くありません。ですから犬がエピソード記憶をもっているかどうかにかかわらず、しつけの基本は「行動の直後のごほうび」となります。
犬との思い出づくりは無意味?
死期が近づいた犬をいろいろな場所に連れ出し、最後の思い出づくりをしてあげる飼い主の話がたまにネットに登場します。映画「最高の人生の見つけ方」の犬バージョンです。このように、死ぬ前にやっておきたい「バケットリスト」(bucket list)を消化してあげることは、犬にとって意味のあることなのでしょうか?
犬がエピソード記憶を持っているのなら、飼い主と出かけたことを思い出として心の片隅に刻んでくれるかもしれません。ただし犬がどのくらいの時間エピソード記憶を持ちづづけてくれるのかは不明ですし、死の間際になって飼い主と共有したさまざまなエピソード記憶を思い出し、「ああ、この人の家庭に飼われてよかった!」と思ってくれるかどうかも不明です。
しかし感情の起伏を伴うエピソード記憶は長く頭の中に残りますので、犬が「すごく楽しい!」と感じてくれれば、その時の思い出を長く記憶にとどめてくれる可能性があります。これは「すごく緊張した初デート」や「とても楽しかった修学旅行」の思い出を、いつまでも忘れないのと同じです。
しかし感情の起伏を伴うエピソード記憶は長く頭の中に残りますので、犬が「すごく楽しい!」と感じてくれれば、その時の思い出を長く記憶にとどめてくれる可能性があります。これは「すごく緊張した初デート」や「とても楽しかった修学旅行」の思い出を、いつまでも忘れないのと同じです。
犬のために思い出づくりをするのなら、飼い主にとって楽しいことではなく、犬にとって楽しいことを体験させてあげたほうが良いと思われます。もちろん、犬の体に負担がかからない程度にですが。