犬における腕神経叢障害・疫学
腕神経叢障害とは前足に連なる複数の神経が強い力で引っ張られることにより、感覚や運動が障害を受けた状態のこと。神経の断裂を伴う重症例は「腕神経叢裂離」などとも呼ばれます。頚椎と肩関節の距離を伸ばすあらゆる外圧が原因となり、人間においては難産、交通事故(頭部からの落下)、スポーツ中の事故、片手でのぶら下がりによる受傷が多いとされます。
腕神経叢障害は犬にも発症しますが、損なわれた神経の機能はちゃんと回復してくれるのでしょうか?イタリアにある複数の大学からなる共同チームが2004年1月から2017年12月の期間、ボローニャ大学とパルマ大学の獣医学教育病院を受診した犬たちのうち、腕神経叢障害と診断された患犬だけをピックアップし、予後に影響を及ぼす因子が何であるかを検証したところ、以下のような傾向が見えてきたといいます。
患犬の基本属性
- 患犬数:40頭
- 年齢中央値:1.9歳(0.16~13.7歳)
- 体重中央値:16kg(5~50kg)
- オス:53%(21頭/8頭は去勢済)
- メス:47%(19頭/11頭は避妊済)
- 品種:純血種は50%
受傷原因
- 交通事故:78%(31頭)
- おそらく交通事故:5%(2頭)
- 高所から落下:7%(3頭)
- イノシシに噛まれた:3%(1頭)
- 不明:7%(3頭)
受傷部位の詳細
- 患側✓右前肢:47%(19頭)
✓左前肢:53%(21頭) - 受傷範囲✓頭側:58%(23頭)
✓尾側:40%(16頭)
✓全域:2%(1頭) - 受傷グレード✓グレード1:10%(4頭)
✓グレード2:22%(9頭)
✓グレード3:3%(1頭)
✓グレード4:65%(26頭)
✓頭側=第6~第7頚神経(C6-C7)
✓尾側=第8頚神経~第2胸神経(C8-T2)
✓全域=第6頚神経~第2胸神経(C6-T2)✓グレード1=片前肢に麻痺があるが体重を支えられる
✓グレード2=片前肢に麻痺があり体重を支えられない/肩関節と肘関節の収縮自体は可能
✓グレード3=片前肢に麻痺があり体重を支えられない/筋収縮はできないが痛覚は残っている
✓グレード4=片前肢に麻痺があり体重を支えられない/筋収縮能力のほか痛覚を含めた皮膚感覚も消失
臨床検査所見
- 複合筋活動電位(CMAP)橈骨の欠如47%(16頭)、減弱47%(16頭)、正常が6%(2頭)/尺骨の欠如が62%(21頭)、減弱35%(12頭)、正常3%(1頭)
- 感覚神経伝達検査(SNCS)18頭が検査を受け、正常が11%(2頭)/尺骨神経だけ異常が17%(3頭)/橈骨神経だけ異常が44%(8頭)/橈骨と尺骨神経の両方異常が28%(5頭)
電気的診断を受けたのは87%(35頭)で、受傷から検査までの期間は中央値で39日。
予後・回復状態
患犬が退院後、飼い主に対して行った追跡調査までのタイムラグ中央値は5.4年(0.8~11年)。26人(65%)が回答し、存命が16頭(62%)、受傷とは無関係の安楽死が8頭、受傷に起因する安楽死が2頭。行動異常が73%(19名)の飼い主から報告された。
Marika Menchetti, Gualtiero Gandini, et al., Veterinary Sciences Volume7 Issue3, DOI:10.3390/vetsci7030101
- 患部をなめる=79%
- 患部を見つめる=68%
- 運動量の減少=62%
- 患部をかじる=32%
- 攻撃行動の増加=26%
- 人や動物との交流の減少=25%
- 遊び行動の減少=6%
Marika Menchetti, Gualtiero Gandini, et al., Veterinary Sciences Volume7 Issue3, DOI:10.3390/vetsci7030101
腕神経叢障害の原因と予防法
複数の患犬を対象とした疫学調査により、多い原因と効果的な予防法が見えてきました。具体的には以下です。
腕神経叢障害の原因
受傷時の年齢中央値を見ると1.9歳ですので、比較的若い犬で多いことがわかります。さらに原因別では、疑わしいものも含めて交通事故が約8割ですので、無責任な飼い主がノーリードで放った犬、家から脱走した犬、あるいは首輪やハーネスが外れて逃げ出した犬が路上で車やバイクと衝突する状況が目に浮かびます。犬が空中に弾き飛ばされた場合、たとえ骨盤骨折を免れたとしても頭から落下して打ち所が悪いと、腕神経叢障害を発症する危険が十分にあります。
アジリティ競技や警察犬の障害物ジャンプなどでは、失敗して頭から落下する光景をよく目にします。この状態はゲラゲラ笑って良いものでは決してなく、頚椎と肩関節の急激な離開によって腕神経叢が障害されうる危険なものです。警察犬の「きなこ」がズッコケる状況も同じです。
断肢はちょっと待って
予後が判明した30頭のうち、1年以内に大なり小なり運動機能が回復した割合は6頭(20%)、回復せず~断肢の割合は24頭(80%)でした。2割の回復率を多いと見るか少ないと見るかは意見が分かれるところですが、調査チームはいきなり前肢の切断を行うのではなく、少なくとも受傷から数ヶ月間は理学療法などを行って回復の兆しを待った方が良いのではないかと言及しています。幸い腕神経叢麻痺は片方の前足にしか発症しませんので、他の3本が無傷であれば移動能力自体は損なわれません。
腕神経叢障害の後遺症
追跡調査を行った26名のうち、73%(19名)で犬の行動異常が報告されました。「患部をなめる」「患部をかじる」といった行動は、違和感や痛みがあるときによく見られますので、人間で言う「神経原性疼痛」がある可能性がうかがえます。
神経原性疼痛とは物理的な異物に反応する生理的疼痛、ミクロな異物に反応する炎症性疼痛とは違い、生体を有害刺激から保護するために作用する痛みではありません。明白な意味もなく感覚異常、感覚不全、痛覚過敏が引き起こされた状態ですので、それ自体が疾患とみなされます。
人医学では、腕神経叢障害を発症した後、30~80%の患者が神経原性疼痛を訴え、鎮痛薬がほとんど効かないことから生活の質(QOL)をいちじるしく損なうとされています。犬においてもこの神経原性疼痛があるのだとしたら、やはりQOLが低下していると考えた方がよいでしょう。犬は痛みや体調不良を隠す動物ですので、飼い主自身が気づかないという状況も大いに想定されます。なお神経原性疼痛を解消しようとして断肢を行ったとしても、今度は切断部位に幻肢痛が現れる危険性がありますので、根本的な解決にはなりません。
神経原性疼痛とは物理的な異物に反応する生理的疼痛、ミクロな異物に反応する炎症性疼痛とは違い、生体を有害刺激から保護するために作用する痛みではありません。明白な意味もなく感覚異常、感覚不全、痛覚過敏が引き起こされた状態ですので、それ自体が疾患とみなされます。
人医学では、腕神経叢障害を発症した後、30~80%の患者が神経原性疼痛を訴え、鎮痛薬がほとんど効かないことから生活の質(QOL)をいちじるしく損なうとされています。犬においてもこの神経原性疼痛があるのだとしたら、やはりQOLが低下していると考えた方がよいでしょう。犬は痛みや体調不良を隠す動物ですので、飼い主自身が気づかないという状況も大いに想定されます。なお神経原性疼痛を解消しようとして断肢を行ったとしても、今度は切断部位に幻肢痛が現れる危険性がありますので、根本的な解決にはなりません。
腕神経叢障害は十分に予防が可能な外傷です。ドッグランなどを除き、屋外を散歩させるときは必ずリードを装着し、犬の動きを制御しましょう。ジャンプや落下を伴う運動に注意し、家庭内では狭い場所に挟まったまま動けなくなるエントラップ事故に気をつけます。首輪をしている場合は外れやすいクイックリリースを選んだ方が安全でしょう。