詳細
調査を行ったのは、アメリカ・カリフォルニア大学の動物科学部チーム。1995年から2010年の期間、同大学デイヴィス校に蓄積されたトータル90,090頭の犬の医療データを基にして、これまであまり着目されてこなかった不妊手術と免疫系疾患の発症リスクに関する統計調査を行いました。その結果、不妊手術を受けた犬はオスとメスを合わせて75.93%、何らかの免疫系疾患にかかっていた犬の割合はオス犬5.2%、メス犬5.5%だったと言います。
BMC Veterinary Research(2016), Crystal R. Sundburg et al, DOI: 10.1186/s12917-016-0911-5
不妊手術の割合
- 未手術のメス犬=9,133頭(10.1%)
- 手術済のメス犬=36,574頭(40.6%)
- 未手術のオス犬=12,555頭(13.9%)
- 手術済のオス犬=31,828頭(35.3%)
メス犬の有病率(未手術:手術済)
- アトピー性皮膚炎=0.91% : 2.04%
- 自己免疫性溶血性貧血=0.42% : 0.70%
- 重症筋無力症=0.12% : 0.13%
- 大腸炎=0.67% : 0.73%
- 副腎皮質機能低下症=0.27% : 0.40%
- 甲状腺機能低下症=0.68% : 2.05%
- 免疫介在性多発関節炎=0.26% : 0.46%
- 免疫介在性血小板減少症=0.23% : 0.72%
- 炎症性腸疾患=0.22% : 0.52%
- エリテマトーデス=0.07% : 0.20%
- 天疱瘡=0.14% : 0.19%
オス犬の有病率(未手術:手術済)
- アトピー性皮膚炎=1.35% : 2.01%
- 自己免疫性溶血性貧血=0.30% : 0.55%
- 重症筋無力症=0.05% : 0.12%
- 大腸炎=0.87% : 0.80%
- 副腎皮質機能低下症=0.16% : 0.36%
- 甲状腺機能低下症=1.67% : 2.13%
- 免疫介在性多発関節炎=0.45% : 0.44%
- 免疫介在性血小板減少症=0.23% : 0.47%
- 炎症性腸疾患=0.37% : 0.52%
- エリテマトーデス=0.24% : 0.15%
- 天疱瘡=0.09% : 0.17%
BMC Veterinary Research(2016), Crystal R. Sundburg et al, DOI: 10.1186/s12917-016-0911-5
解説
免疫系疾患に限って見てみると、オス犬にしてもメス犬にしても不妊手術が必ずしも予防的に作用しておらず、逆に発症リスクを高めているという事実が明らかになりました。しかしこの事だけから「不妊手術は犬にとってマイナスだ!」と判断してしまうのは「木を見て森を見ず」になってしまいます。
例えば発症率が0.22%の炎症性腸疾患のリスクが2倍に高まって0.44%になるのが嫌だからと言ってメス犬の不妊手術を取りやめたとしましょう。その結果、不妊手術によって発症率が25%から1%未満に低下するはずの子宮蓄膿症や乳腺腫瘍を発症してしまい、犬の命を脅かすかもしれません。
不妊手術がその犬にとってメリットとなるのがデメリットとなるのかは判断が非常に難しく、熟考を要します。以下のページでは手術がもたらす両側面について解説してありますの当ページと併せてご参照ください。
例えば発症率が0.22%の炎症性腸疾患のリスクが2倍に高まって0.44%になるのが嫌だからと言ってメス犬の不妊手術を取りやめたとしましょう。その結果、不妊手術によって発症率が25%から1%未満に低下するはずの子宮蓄膿症や乳腺腫瘍を発症してしまい、犬の命を脅かすかもしれません。
不妊手術がその犬にとってメリットとなるのがデメリットとなるのかは判断が非常に難しく、熟考を要します。以下のページでは手術がもたらす両側面について解説してありますの当ページと併せてご参照ください。
オスメス共通の知見
過去に行われた調査では、不妊手術を受けた犬よりも不妊手術を受けていない犬の方が感染症によって死亡する確率が高く、結果として寿命が短くなると報告されています。そして、そのメカニズムとしては、性腺ステロイドが持つ免疫抑制作用が減弱するため感染症にかかりやすくなるからというものが想定されています。今回の調査は免疫疾患にターゲットを絞って行われたため、不妊手術の有無と死亡率(寿命)との関係までは明確化できませんでした。
自己免疫疾患のうち6つは、性別にかかわらず不妊手術を受けた犬で発症リスクが高まりました。マウスを用いた調査では、オスでもメスでも不妊手術が胸腺とリンパ組織の肥大を招くことが確認されています。不妊手術によって性腺ステロイドの濃度を低下させると、性的に成熟する頃に現れる胸腺の退縮過程が阻害され、結果として肥大を招くものと推測されています。一方別の調査では、胸腺の肥大と自己免疫疾患との関連が指摘されています。不妊手術によって性腺を切除すると、胸腺の退縮が遅れて免疫介在性の疾患を発症しやすくなるかもしれません。
統計的に有意とまでは言えないものの、オスよりもメスの方が自己免疫疾患にややかかりやすい傾向が見出されました。この現象の背景には女性ホルモンの体内濃度がかかわっていると推測されています。
メス犬と免疫系疾患リスク
- 抗体反応の高まり マウスにおいては、体内におけるエストロゲン濃度が高いメスの方が免疫グロブリンレベルが高く、抗体反応が高まるとされています。一方、他の動物を用いた調査では、不妊手術を受けていないメスの方が自己免疫疾患にかかりやすいとされています。これらの事実をまとめると、エストロゲン濃度が高い未手術のメスの方がオスよりも体液性免疫反応や細胞性免疫反応が早い反面、自己と非自己を取り違えて自己免疫疾患を発症するリスクも高まり、全体の発症率を高めているという仮説が浮かんできます。
- 抗酸化作用の減少 マウスを用いた調査では、女性ホルモンの一種であるエストラジオールの抗酸化作用が報告されています。また犬を対象とした別の調査では、不妊手術を受けたメス犬で酸化ストレスのリスクが高まるとされています。まとめると、不妊手術によるエストラジオールの減少が酸化ストレスを増加させ、免疫系疾患の発症率を高めるという仮説が浮かんできます。
オス犬に関する知見
以下は、去勢手術とオス犬の免疫系疾患について特筆すべき項目です。
アトピー性皮膚炎
去勢手術を施したオス犬でアトピー性皮膚炎の発症リスクが1.51倍に高まりました。皮膚炎に対して発症抑制作用を有している男性ホルモンの一種「アンドロゲン」が減ったからだと考えられています。
副腎皮質機能低下症
去勢手術を受けたオス犬では副腎皮質機能低下症(アジソン病)の発症率が2.07倍に高まりました。同症を抱えた女児を対象とした調査では、アンドロゲンを投与することによって症状が軽減したとされています。また、特に男性においては性腺低形成症と副腎皮質機能低下症の重症度との間に関連性があるとされています。こうした事実から考えると、男性ホルモンであるアンドロゲンには当症に対する発症抑制効果があるのだと推測されます。
メス犬に関する知見
以下は、避妊手術とメス犬の免疫系疾患について特筆すべき項目です。
エリテマトーデス
避妊手術を受けたメス犬でエリテマトーデス(紅斑性狼瘡)の発症リスクが2.64倍に高まりました。複数の動物種を用いた他の調査では、エストロゲンによってエリテマトーデスの罹患率が高まることが指摘されていますが、犬においてはこの女性ホルモンが逆向きに作用しているのかもしれません。
炎症性腸疾患
炎症性腸疾患に関しては避妊手術によって発症リスクが高まりましたが、オス犬(OR1.43)よりもメス犬(OR2.20)の方でより顕著な高まりが見られました。この格差にはエストラジオールが持つ抗炎症効果が関わっているのではないかと推測されています。具体的なメカニズムとしては、エストロゲン受容器が細胞間における「p65 transcription factor」の移動をブロックする→細胞の核に移動する「p65 transcription factor」が減る→サイトカインやケモカインといった炎症を促すタンパク質の転写が減少する→抗炎症作用というものです。仮説の域を出ませんが、犬においても同じようなメカニズムが働いた可能性があります。
免疫介在性血小板減少症
避妊手術を施したメス犬で免疫介在性血小板減少症の発症リスクが3.14倍になりました。エストロゲンやプロゲステロンといった性腺ホルモンが血小板や赤血球の細胞表面にあるマーカーをコントロールしているのだとすると、こうしたホルモンを除去することによって細胞表面のマーカーが変化し、血小板や赤血球が非自己として認識され、破壊されてしまうのかもしれません。
甲状腺機能低下症
避妊手術によりメスで甲状腺機能低下症の発症率が3.03倍高まりました。この事実は、卵巣切除を施したラットで甲状腺のサイログロブリンに対する自己抗体が増加するという報告と一致します。今回の調査では自己抗体のレベルまでは計測しなかったものの、増加した自己抗体が甲状腺やホルモンを破壊したものと推測されています。