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イヌインフルエンザウイルス「H3N8 CIV」の人への感染性

 変異によって多様な感染性を示すインフルエンザウイルス。本来イヌにしか感染しないはずのH3N8 CIVも、ほんのちょっとした変異を遂げるだけで人への感染性を獲得してしまうようです。

H3N8 CIVのヒト細胞への感染性

 調査を行ったのは東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部のチーム。鳥インフルエンザから変異を遂げてイエイヌへの感染性を獲得した「H3N8 CIV」が、さらに種を超えて人の呼吸器細胞にまで適応するかどうかを試験管レベルで実験しました。

専門用語

 実験結果を理解する際に必要となる基礎知識は以下です。

HA

ヘマグルチニン(hemagglutinin, HA)とは、インフルエンザウイルスの表面上に存在する抗原性糖タンパク質の一種。 赤血球凝集素とも呼ばれ15種類の亜型がある。HA1領域とHA2領域とからなり、この物質によってウイルスが細胞に感染できる。

NA

ノイラミニダーゼ(neuraminidase, NA)はポリサッカライド鎖の末端にあるシアル酸残基を加水分解する酵素。9種類の亜型があり、インフルエンザウイルスが感染した細胞から離れる時に重要な役割を果たす。

A549細胞

ヒト肺胞基底上皮腺癌細胞。人の呼吸器を実験レベルで再現する際に利用され、ヒト型受容体とトリ型受容体の両方を発現する。

膜融合

膜融合は2つの分かれた脂質二重膜からなる小胞が融合し、一つの小胞になる過程のこと。宿主細胞の食胞内が酸性化すると、ウイルスが有する活性化HAの膜融合活性作用により食胞の膜とウイルスのエンベロープ(ウイルスの膜)が融合し始める。

受容体

受容体とはウイルスがヒトや動物に感染する際に最初に結合する細胞表面の分子のこと。インフルエンザウイルスが結合する受容体は特定の構造をもつ糖鎖であり、動物種により異なる。受容体には大きく分けてヒト型とトリ型があり、鳥インフルエンザウイルスはトリ型の受容体によく結合し、ヒトインフルエンザウイルスはヒト型の受容体によく結合する性質を持つ。

シアル酸

シアル酸はA型インフルエンザウイルスが細胞に結合する際の受容体に含まれる分子。ヒト型受容体には2,6-シアル酸、トリ型受容体には2,3-シアル酸が含まれる。

ポリメラーゼ

ポリメラーゼはインフルエンザウイルスが自己増殖を行う際に必要となる10種のタンパク質のうちの1つ。PA、PB1、PB2という3つのサブユニットから構成され、すべてのユニットが揃っていることを条件に遺伝子の複製過程で重要な役割を果たす。

M1タンパク質

M1タンパク質はインフルエンザウイルスのエンベロープの内側を裏打ちする構造タンパク質の1種。

実験結果

 移植されたウイルス内で確認された複数の変異のうち、ウイルスが細胞内に侵入する際および細胞から外に排出される際に不可欠となる表面糖タンパクのHAとNAにおけるものが、ウイルスの成長率増加に大きく関与していることが判明しました。

HA1の変異

 ヘマグルチニン(HA)に含まれる2つの領域のうちHA1領域において2つの変異(HA1-G158E | HA1-E218G)が確認されました。
 HA1変異を有した合成ウイルスでは10倍以上の成長率増加が確認されましたが、トリ型受容体(2,3-シアル酸)との結合能に変化は見られませんでした。
 この観察結果から、細胞のヒト型受容体に対するほんのわずかな結合能の増加が成長率を激増させたと推測されました。

HA2の変異

 HAに含まれる2つの領域のうちHA2領域において2つの変異(HA2-K82E | HA2-R163K)が確認されました。
 これら2変異だけを有したウイルスでは成長の劇的な増加は観察されなかった一方、2変異+NA-S18Lという変異コンビネーションでは劇的な増加が見られました。
 この観察結果から、HA2とNAで変異が混在したときに相乗効果が生み出され、ウイルスエンベロープ上にあるHAの相対量が増えると推測されました。

NAの変異

 ウイルス排出分析をしたところ、赤血球からのrNA-S18Lの排出で遅延が見られました。
 この観察結果から、ノイラミニダーゼ(NA)の変異(S18L)が脂質ラフトにあるNAタンパクの量を減らし、ウイルスエンベロープの減少を招いてNA活性を低下させ、結果としてウイルスのHA-NA機能バランス(ウイルスの成長、病原性、宿主域を調整する)に影響したと推測されました。

ウイルス内部タンパクの変異

 ヒト細胞に適応したウイルス内のタンパク質で認められた変異(PB2:K738R | PA:G58S | NP:N473D | M1:V180A)は、すべてウイルスの成長増加に大なり小なり関与していました(NP=核タンパク質)。しかしH3N8 CIVがA549に適応する際には必須でないと推測されました。
 M1-V180AはM1タンパク質のC端末に位置しており、モノマー形成に関わっていることから、M1タンパクの安定性に影響して細胞内におけるウイルスの成長につながっている可能性があると推測されました。
Adaptation potential of H3N8 canine influenza virus in human respiratory cells.
Sekine, W., Kamiki, H., Ishida, H. et al. Sci Rep 14, 18750 (2024). https://doi.org/10.1038/s41598-024-69509-x

変異H3N8 CIVの潜在リスク

 HA1、HA2、NAに変異を有した合成ウイルスでは成長率が劇的に増加することから、表面糖タンパクのほんのわずかかな変異さえあれば、H3N8 CIVが人の呼吸器に感染する株になりうることが明らかになりました。

中間宿主における変異

 人への感染性に関する似たような例としては、2006年に鳥から犬への感染が確認されたH3N2 CIVでヒト型受容体特異性、HAの安定性増加、人の呼吸器上皮細胞における増殖能力が確認されています。また猫に感染するインフルエンザAウイルス「H7N2」が膜融合活性とHA-NA機能バランスの変化を通してヒト由来のA549細胞に適応した先例もあります。
 犬であれ猫であれ、中間宿主から間接的にインフルエンザウイルスに感染する際は、鳥から人に直接感染するときよりも格段にたやすくなってしまうようです。

パンデミックリスクに備える

 当調査においてHA2やNA内で検出された変異アミノ酸は、ヒトから単離されたH3N8や近年のH3N2(2006年に鳥から犬への感染が確認されたインフルエンザウイルス)データベースでは確認できず、H3N8 CIV固有のものと推測されました。 ヒトA549細胞に適応したH3N8 CIVにおける変異部位の3Dモデル  実験結果が示唆する通り、ウイルス表面にある糖タンパク質のわずかな変異により種を超えた感染能をもつ変異株が誕生するリスクが常にあるため、未知のパンデミックに備えて既存ウイルスに対する監視システムを強化する必要があると調査チームは警鐘を鳴らしています。