伝説の出どころ


伝説の検証
2007年ごろから広まりだした「犬もうつ病になる」という都市伝説は、果たして本当なのでしょうか?この伝説の真偽を検証するためには、まず人医学におけるうつ病について考察なければなりません。
人間におけるうつ病
厚生労働省によると、うつ病とは「精神的ストレスや身体的ストレスによって引き起こされる脳の機能障害」とされています(→出典)。つまり「心の病気」という印象とは裏腹に、実際は「脳の病気」だというのです。日本人のおよそ3~7%が経験しており、3年ごとに行っている患者調査では年々この割合が増えているとも。うつ病には様々な診断方法がありますが、主なものは、患者に対する問診、第三者による観察、そして近年開発された脳スキャン法です。
患者への問診
患者に対する問診はうつ病診断におけるゴールドスタンダードと考えられています。「精神障害の診断と統計マニュアル・第4版」(DSM-4)では、うつ病は「大うつ病エピソード」(Major Depressive Episode)と呼ばれ、ある特定の項目を満たして初めてそうと診断されます(→出典)。
またざっくりとしたうつ病の目安として、以下に示すような項目が2週間以上続くとされます(→出典)。
またざっくりとしたうつ病の目安として、以下に示すような項目が2週間以上続くとされます(→出典)。
うつ病の簡易目安
- 気分が重い
- 何をしても楽しくない
- 何にも興味がわかない
- 疲れているのに眠れない
- 一日中眠い
- いつもよりかなり早く目覚める
- 漠然とイライラする
- 何かにせき立てられている感じがする
- 漠然とした罪悪感がある
- 自分を責める
- 自分には価値がないと感じる
- 思考力が落ちる
- 死にたくなる
第三者による観察
本人は気づいていなくても、第三者の観察によってうつ病の徴候が明らかになることもあります。第三者が気付きやすい代表的な変化は以下ですが、こうした項目を満たしたからといって、外からの観察だけを頼りにうつ病と診断することはできません(→出典)。
端から見えるうつ病の徴候
- 表情が暗い
- 涙もろくなった
- 反応が遅い
- 落ち着かない
- 飲酒量が増える
脳をスキャンする
近年開発されたのが、脳をスキャンすることによって精神疾患を診断するという新しい手法です(→出典)。「国立精神・神経医療研究センター」が開発したこの方法では、患者の脳をMRIでスキャンし、帯状回の膝下部と呼ばれる領域に変化が認められるかどうかをチェックします。変化が見られた場合は、78%という高い確率でうつ病と統合失調症の鑑別が可能になるとのこと。この技術により、主観的になりがちな医師による問診に、画像による客観性が加わり、従来よりも正確な診断が可能になると期待されています。
犬におけるうつ病

まず人間のように話すことができませんので、当然患者に対する問診などはできません。また全身麻酔を施してMRIで脳をスキャンするという手法は、犬の身体に対する負担が大きく、また飼い主に対する経済的負担も大きいため、あまり現実的とは言えません。そこで最後に残るのが、第三者による観察です。獣医学領域の知識を幅広く公開している「Vetinfo」というサイトによると、以下に示す8つの項目をうつ病の徴候として挙げています(→出典)。
犬のうつ病の徴候(?)
- 食習慣の変化
- 引きこもりがちになる
- 水を飲まなくなる
- 急激な体重減少
- 元気がない(運動量が減る)
- 不安の増大と落ち着きのなさ
- 抜け毛の増加
- 攻撃性の増加
伝説の結論
人医学と獣医学におけるうつ病の違いを概観し、人医学分野ではうつ病が脳の機能障害とされている一方、獣医学分野でうつ病の存在は実証されていないことがわかりました。ですから「犬もうつ病になる」という都市伝説は、今のところ嘘あるいは未確認と言ってよいでしょう。どの獣医学の教科書を見ても「うつ病」などという言葉が記載されていないのがその証拠です。
では、うつ病伝説の引き金となった犬用精神薬は全く無用の長物かというと、一概にそうとは言い切れない部分があります。犬や猫の問題行動に対して投薬治療でアプローチしようとする分野は「行動薬理学」(こうどうやくりがく)と呼ばれますが、以下ではこの新興分野がもつメリットとデメリットの両側面を見ていきたいと思います。
では、うつ病伝説の引き金となった犬用精神薬は全く無用の長物かというと、一概にそうとは言い切れない部分があります。犬や猫の問題行動に対して投薬治療でアプローチしようとする分野は「行動薬理学」(こうどうやくりがく)と呼ばれますが、以下ではこの新興分野がもつメリットとデメリットの両側面を見ていきたいと思います。
投薬治療のメリット
行動薬理学が持つ大きなメリットは、脳内の神経伝達物質を微調整できるという点、および時として犬や猫の命をつなぐことに貢献するという点です。
神経伝達物質を微調整する
犬用精神薬が、脳内における神経伝達物質の振る舞いを変化させるというのは事実のようです。スタンレー・コレン著「犬と人の生物学」(築地書館)の中では、以下のような事例が紹介されています。
1980年代初頭、タフツ大学獣医学部のニコラス・ドッドマンは、同僚と並んで動物行動クリニックに連れてこられたマックスと言う名の犬を観察していました。犬はだるそうで、普段より寝ている時間が長くなり、典型的なうつ状態に陥っていたといいます。マックスがうつ状態で不安神経症であると当たりを付けたドッドマンは、同僚の嘲笑をものともせず、マックスに抗うつ剤を処方して行動を観察しました。その結果、症状は劇的に改善したといいます。
上記した例からもわかる通り、精神薬には犬の脳内における神経伝達物質の分泌を微調整し、気分に変化をもたらす力を持っていることは確かなようです。
1980年代初頭、タフツ大学獣医学部のニコラス・ドッドマンは、同僚と並んで動物行動クリニックに連れてこられたマックスと言う名の犬を観察していました。犬はだるそうで、普段より寝ている時間が長くなり、典型的なうつ状態に陥っていたといいます。マックスがうつ状態で不安神経症であると当たりを付けたドッドマンは、同僚の嘲笑をものともせず、マックスに抗うつ剤を処方して行動を観察しました。その結果、症状は劇的に改善したといいます。
上記した例からもわかる通り、精神薬には犬の脳内における神経伝達物質の分泌を微調整し、気分に変化をもたらす力を持っていることは確かなようです。
犬や猫の命をつなぐ
世の中には、信じられないような理由で飼っている犬を捨てる人がいます。一例を挙げれば、「無駄吠えがうるさい」 、「家の中で粗相をする」 、「うんちを食べてしまう」などです。この種の人間が動物病院にやってきて「先生、こいつの無駄吠えどうにかなりませんかね?近所から苦情が来てるんですよ。治らないなら、保健所に連れて行っちゃおうかな」と言ったらどうなるでしょう。正攻法は、獣医師が無駄吠えのしつけ方を教えて問題行動を軽減することです。しかし教えている時間もないし、飼い主が素直に手順を踏んでくれるとも思えません。そんな時、「犬の精神を落ち着ける薬」なるものがあったら、思わず処方したくなるのではないでしょうか。
上記したような極端な状況における投薬治療は、犬や猫の命をつなぐことに貢献していると言えなくもないでしょう。
上記したような極端な状況における投薬治療は、犬や猫の命をつなぐことに貢献していると言えなくもないでしょう。
投薬治療のデメリット
行動薬理学にメリットしかないのなら、もっと普及しているはずです。しかし万能薬としてもてはやされていないのは、デメリットも併せ持っているからにほかなりません。
薬の副作用
人用抗うつ薬「PROZAC®」、および犬用精神薬「RECONCILE™」の中に含まれている「塩酸フルオキセチン」は、脳内におけるセロトニンの再吸収を阻害することで「性格が明るくなる」、「頭がすっきりする」といった作用をもたらすと言われています。しかしその一方、以下に示すような様々な副作用を引き起こす危険性も併せ持っています(→出典)。
RECONCILE™の副作用
- 食欲不振
- 嘔吐
- 震え
- 下痢
- 挙動不審
- 無駄吠え・クンクン鳴き
- 攻撃性の増加
- 体重減少
- 過剰なよだれ
- 倦怠感
- 発作
しつけネグレクト
犬に対する投薬治療は、本来行うべきしつけの必要性を曇らせてしまう危険性があります。必要な医療的な処置を見過ごしてしまうことを「医療ネグレクト」と言いますが、言うなれば「しつけネグレクト」とでも言うべき現象です。
犬用精神薬がターゲットとしている強迫神経症や分離不安といった症状は、時としてしつけによって矯正することができることもあります。例えば飼い主がいなくなることで不安を感じる分離不安を示す犬においては、留守番のしつけを施すことによって症状が軽減する可能性があります。また2015年、フィンランドで行われた大規模なアンケート調査により、騒音感受性と分離不安には、飼い主による日々の運動が大きく関わってることが確認されました(→出典)。つまり、飼い主が犬と一緒に遊びや散歩といった運動をしてあげると、それだけで犬の分離不安症状が軽減する可能性があるのです。
このように、犬の問題行動には多くの場合、しつけや環境の見直しによってアプローチできる余地があります。安易に投薬治療行ってしまうと、こうした可能性を見過ごして「しつけネグレクト」につながる危険性が高まってしまうでしょう。
犬用精神薬がターゲットとしている強迫神経症や分離不安といった症状は、時としてしつけによって矯正することができることもあります。例えば飼い主がいなくなることで不安を感じる分離不安を示す犬においては、留守番のしつけを施すことによって症状が軽減する可能性があります。また2015年、フィンランドで行われた大規模なアンケート調査により、騒音感受性と分離不安には、飼い主による日々の運動が大きく関わってることが確認されました(→出典)。つまり、飼い主が犬と一緒に遊びや散歩といった運動をしてあげると、それだけで犬の分離不安症状が軽減する可能性があるのです。
このように、犬の問題行動には多くの場合、しつけや環境の見直しによってアプローチできる余地があります。安易に投薬治療行ってしまうと、こうした可能性を見過ごして「しつけネグレクト」につながる危険性が高まってしまうでしょう。
根本原因の放置
犬に対する投薬治療は、強迫神経症的な行動や分離不安症状を示す犬が抱えている、根本原因の放置につながってしまう可能性があります。
例えば強迫神経症で見られる「同じ場所を行ったり来たりする」という行動が、屋外につなぎっぱなしで散歩にも連れて行かないという生活環境に起因するものであるとしましょう。この場合、犬を室内飼いにして頻繁に散歩に連れて行ってあげることで、行動が消えてくれる可能性があります。
ストレスに起因する常同行動を強迫神経症と勘違いして安易に投薬治療行ってしまうと、犬が抱えている根本的なストレスの原因を放置したまま、いたずらに副作用の苦痛だけを与えてしまうことになってしまいます。
例えば強迫神経症で見られる「同じ場所を行ったり来たりする」という行動が、屋外につなぎっぱなしで散歩にも連れて行かないという生活環境に起因するものであるとしましょう。この場合、犬を室内飼いにして頻繁に散歩に連れて行ってあげることで、行動が消えてくれる可能性があります。
ストレスに起因する常同行動を強迫神経症と勘違いして安易に投薬治療行ってしまうと、犬が抱えている根本的なストレスの原因を放置したまま、いたずらに副作用の苦痛だけを与えてしまうことになってしまいます。
行動薬理学の未来
犬の問題行動に対して投薬治療でアプローチしようとする「行動薬理学」にはメリットとデメリットの両側面があります。
強迫神経症や分離不安、あるいはうつ状態といった症状に対する基本的なアプローチ方法は、しつけと環境整備です。これらの方法は、犬に副作用を与えることなく、病的行動の根本原因を取り除くことができますので、まず第一選択肢として覚えておきたい項目です。
しかし、ストレスや環境によってではなく、脳の構造的な変化によって病変や異常行動が起こっている場合は、行動薬理学の方が奏功する可能性もあります。例えば2013年に行われた調査では、犬の強迫神経症には人間の脳内で見られるのと同じ帯状皮質、島灰白質、脳梁の構造的変化が関係している可能性が指摘されています(→出典)。また、 2015年に行われた調査では、幼少期に適切な養育を受けた子供の脳内では、視覚野や報酬系に関与する線条体といった部分に構造的な変化が生じることが明らかになっています(→出典)。犬の脳内でも同じような変化が起こるのだとすると、「ほめて育てる」が通用しにくくなるため、しつけによって行動を変化させることはかなり難しくなります。そうした場合、行動薬理学的なアプローチによって、脳内の神経伝達物質そのもの調整すれば、犬の気質自体が変化して、行動の修正につながってくれる可能性が高まるでしょう。 犬に対する精神薬の投与は、行動矯正に対する第一選択肢にはなりませんが、しつけや環境整備といったゴールドスタンダードを補う第二選択肢としてなら共存していけるかもしれません。飼い主として常に念頭に置いておくべきは、本来やるべきことが残されているのに、安易に犬を薬漬けにしないという点でしょう。まずは犬の生活環境の中から可能な限りストレスの原因を排除する「環境エンリッチメント」を行うことが推奨されます。詳細は以下のページをご参照ください。
強迫神経症や分離不安、あるいはうつ状態といった症状に対する基本的なアプローチ方法は、しつけと環境整備です。これらの方法は、犬に副作用を与えることなく、病的行動の根本原因を取り除くことができますので、まず第一選択肢として覚えておきたい項目です。
しかし、ストレスや環境によってではなく、脳の構造的な変化によって病変や異常行動が起こっている場合は、行動薬理学の方が奏功する可能性もあります。例えば2013年に行われた調査では、犬の強迫神経症には人間の脳内で見られるのと同じ帯状皮質、島灰白質、脳梁の構造的変化が関係している可能性が指摘されています(→出典)。また、 2015年に行われた調査では、幼少期に適切な養育を受けた子供の脳内では、視覚野や報酬系に関与する線条体といった部分に構造的な変化が生じることが明らかになっています(→出典)。犬の脳内でも同じような変化が起こるのだとすると、「ほめて育てる」が通用しにくくなるため、しつけによって行動を変化させることはかなり難しくなります。そうした場合、行動薬理学的なアプローチによって、脳内の神経伝達物質そのもの調整すれば、犬の気質自体が変化して、行動の修正につながってくれる可能性が高まるでしょう。 犬に対する精神薬の投与は、行動矯正に対する第一選択肢にはなりませんが、しつけや環境整備といったゴールドスタンダードを補う第二選択肢としてなら共存していけるかもしれません。飼い主として常に念頭に置いておくべきは、本来やるべきことが残されているのに、安易に犬を薬漬けにしないという点でしょう。まずは犬の生活環境の中から可能な限りストレスの原因を排除する「環境エンリッチメント」を行うことが推奨されます。詳細は以下のページをご参照ください。