平治とは?
平治は、登山者に連れ添って歩き、遭難者を救ったとされるガイド犬。
「平治」(へいじ)といういかつい名前に反し、性別はメスでした。皮膚病持ちで貧相な子犬だった平治が最初に人前に現れたのは、1973年夏のこと。場所は大分県・九重連山(くじゅうれんざん)にある「長者原ヘルスセンター」付近です。子犬だった彼女を最初に見つけたのは、同センターに務める荏隈保(えのくまたもつ)さんで、後に彼女のトレーナーとなる人物です。
犬好きだった荏隈さんは、彼女を家へ連れ帰ることはできなかったものの、センター付近でエサを与えるようになります。登山者からのエサを期待して、犬が一緒に山に登るようになったのはこの頃からだと推察されています。 ある日、修学旅行中の中学生からガイドを頼まれた荏隈さんは、近くにいた犬に何気なく声を掛けました。このときの彼女は皮膚病も治り、体もすっかり大きくなっていたといいます。犬は立ち上がり、まるで中学生をリードするかのように歩き出しました。これを見た荏隈さんは、彼女を「ガイド犬」として訓練しようと思い立ちます。またこのとき登っていた山の名前から、彼女を「平治」と名づけました。
「ガイド犬」として独立した後の平治の詳細は、実はよく分かっていません。ただ、山小屋に置かれた「平治ノート」に感謝のメッセージがたくさん残されていることから、彼女が登山者たちと行動を共にしていたことだけは確かなようです。 ガイド犬として活動を始めてから13年目になる頃、強壮だった平治の体力も衰え、登山口に座ってじっとしている日が段々と多くなってきました。この様子を見た荏隈さんは、1988年6月、彼女を引退させることを決意します。平治が倒れたのは、それからわずか2ヵ月後の8月3日でした。登山客をキャンプ場へ送ったあと、動けなくなったとのこと。荏隈さんは急いで現場に向かいましたが、平治はすでに息を引き取っていたといいます。享年推定15歳。それから3日後に行われた葬儀には、当時の九重町長を始め、100名余りの人々が参列しました。 平治の死から1年ほど経った1989年6月、彼女の功績を称えた銅像が、慣れ親しんだ「長者原ヘルスセンター」近くに建立されました。また同年、彼女の生涯を記した「ありがとう!山のガイド犬"平治"」が出版され、さらにそれを元にした東宝映画「奇跡の山」が1992年に公開されています。 平治 アイドルドッグ.jp
「平治」(へいじ)といういかつい名前に反し、性別はメスでした。皮膚病持ちで貧相な子犬だった平治が最初に人前に現れたのは、1973年夏のこと。場所は大分県・九重連山(くじゅうれんざん)にある「長者原ヘルスセンター」付近です。子犬だった彼女を最初に見つけたのは、同センターに務める荏隈保(えのくまたもつ)さんで、後に彼女のトレーナーとなる人物です。
犬好きだった荏隈さんは、彼女を家へ連れ帰ることはできなかったものの、センター付近でエサを与えるようになります。登山者からのエサを期待して、犬が一緒に山に登るようになったのはこの頃からだと推察されています。 ある日、修学旅行中の中学生からガイドを頼まれた荏隈さんは、近くにいた犬に何気なく声を掛けました。このときの彼女は皮膚病も治り、体もすっかり大きくなっていたといいます。犬は立ち上がり、まるで中学生をリードするかのように歩き出しました。これを見た荏隈さんは、彼女を「ガイド犬」として訓練しようと思い立ちます。またこのとき登っていた山の名前から、彼女を「平治」と名づけました。
「ガイド犬」として独立した後の平治の詳細は、実はよく分かっていません。ただ、山小屋に置かれた「平治ノート」に感謝のメッセージがたくさん残されていることから、彼女が登山者たちと行動を共にしていたことだけは確かなようです。 ガイド犬として活動を始めてから13年目になる頃、強壮だった平治の体力も衰え、登山口に座ってじっとしている日が段々と多くなってきました。この様子を見た荏隈さんは、1988年6月、彼女を引退させることを決意します。平治が倒れたのは、それからわずか2ヵ月後の8月3日でした。登山客をキャンプ場へ送ったあと、動けなくなったとのこと。荏隈さんは急いで現場に向かいましたが、平治はすでに息を引き取っていたといいます。享年推定15歳。それから3日後に行われた葬儀には、当時の九重町長を始め、100名余りの人々が参列しました。 平治の死から1年ほど経った1989年6月、彼女の功績を称えた銅像が、慣れ親しんだ「長者原ヘルスセンター」近くに建立されました。また同年、彼女の生涯を記した「ありがとう!山のガイド犬"平治"」が出版され、さらにそれを元にした東宝映画「奇跡の山」が1992年に公開されています。 平治 アイドルドッグ.jp