バルトとは?
バルト(Balto)は、犬ぞりで血清を輸送しジフテリアの流行を阻止した犬。
1924年12月、アラスカ北部の都市ノームで、のどの痛みを訴える患者が増え始めました。当初は扁桃腺炎という診断が下されていましたが、翌年1月には死者が出る事態に発展したため、病原菌は感染性と致死性の高い「ジフテリア」であることが確実となります。当時のノームは十分な量の血清を確保していなかったため、最悪のケースでは、10,000人を越える市民の大部分が死んでしまうという危機的な状況に陥りました。
ノームへの血清移送という急務を完遂するため、最初は空輸が検討されました。しかし安全性に乏しいという理由で却下され、結局犬ぞり輸送が採択されます。移動するのは、ネナナからノームまでの全長1,085キロメートルという膨大な距離です。これは青森~東京間を往復する距離に相当します。
1925年1月27日にネナナを出発した300,000ユニットの血清は、20人のマッシャー(犬ぞりの操縦者)と100頭以上のそり犬たちでリレー輸送を行い、わずか5日半でノームに到着しました。 ノームを救ったこの偉業は、当時登場したばかりのラジオで報道され、また新聞でも大々的に特集されました。特にノームへ至る最終区画を担当した犬ぞりのリーダー「バルト」が最も注目を浴びるようになり、ニューヨークのセントラルパークには彼の功績を称えた銅像が建立されました。 1925 serum run to Nome Balto


1925年1月27日にネナナを出発した300,000ユニットの血清は、20人のマッシャー(犬ぞりの操縦者)と100頭以上のそり犬たちでリレー輸送を行い、わずか5日半でノームに到着しました。 ノームを救ったこの偉業は、当時登場したばかりのラジオで報道され、また新聞でも大々的に特集されました。特にノームへ至る最終区画を担当した犬ぞりのリーダー「バルト」が最も注目を浴びるようになり、ニューヨークのセントラルパークには彼の功績を称えた銅像が建立されました。 1925 serum run to Nome Balto
バルトの写真・動画
以下でご紹介するのは、犬ぞりで血清を輸送しジフテリアの流行を阻止した犬「バルト」の写真と動画です。

マッシャーであるグンナー・カーセンとバルトのチームは、ブラフからノームまでの最終区画、約85キロメートルを走破した。暗闇やブリザードのせいで全く方向が分からなかったため、実質的に進行方向はバルトに任せたという。午後2時にいったんは中継地点に到着したものの、引継ぎマッシャーのエド・ローンが眠っていたため、そのまま走り続けた。無事にノームに到着したのは、それから約3時間半後の5時30分だった。写真の出典はこちら。

一躍人気者となったバルトは、その後アメリカに渡った。しかしそこでは見世物のようなひどい扱いを受けていたという。彼の不遇をたまたま見知った実業家ジョージ・キンブルは、新聞社に働きかけて何とか彼を身請けし、1927年の3月、オハイオ州クリーヴランドへと連れて行った。彼の死後、遺体は地元の「クリーヴランド自然史博物館」に寄贈され、現在も剥製という形で展示されている。写真の出典はこちら。

1926年12月17日、バルトの功績を記念し、フレデリック・ロースが彼の銅像をニューヨークのセントラルパークに建立した。除幕式にはバルト自身も参列したという。写真の出典はこちら。

バルトの陰に隠れて目立たないが、トーゴ(Togo)こそが真のヒーローであると考える人も多い。トーゴは全区画の中で最長となる146キロメートルを走破した、レオンハルト・セパータチームのリーダー犬だった。彼のおかげでチームは道に迷わず進めたという。なお、彼の名は日本の東郷平八郎にちなんいる。写真の出典はこちら。
1925 Serum Run