僧帽弁閉鎖不全症の病態と症状
犬の僧帽弁閉鎖不全とは、心臓の左心室と左心房を隔てる僧帽弁と呼ばれる弁がうまく閉じないため、血液が左心室(下)から左心房(上)へと逆流してしまう状態のことです。
僧帽弁は、心房と心室の境目にある「房室弁」(ぼうしつべん)の一種であるため、「房室弁心内膜症」と呼ばれることもあります。しかし、もう一つの房室弁である「三尖弁」(さんせんべん)よりも、「僧帽弁」の方が圧倒的に臨床例が多いため、障害場所を限定して「僧帽弁閉鎖不全症」と呼ぶ方が一般的です。
近年では閉鎖不全の原因まで含んだ「慢性変性性房室弁疾患」(Chronic Degenerative valvular disease,CDVD) や「僧帽弁粘液腫様変性」(Myxomatous mitral valve disease, MMVD)といった呼び方も提案されていますが、あまり馴染みがないため当ページ内では従来通り僧帽弁閉鎖不全症と表記します。


僧帽弁閉鎖不全の病態
慢性変性性房室弁疾患
僧帽弁閉鎖不全症の原因として最も多い慢性変性性房室弁疾患(CDVD)とは、弁尖や腱索など弁装置に粘液腫様の変性が生じて血液の流れが妨げられ逆流してしまう病態のことです。
病気が進行するとケーブル状の腱索が断裂し、弁を正常な位置につなぎとめておくことができなくなります。また粘液腫に似た弁尖の変性部分を顕微鏡で調べると、多くの場合線維層の破壊、海綿層における疎性結合組織の増加、酸性ムコ多糖類の過剰な沈着が観察されます。

感染性心内膜炎
感染性心内膜炎は心臓内に侵入してきた病原体が僧帽弁や大動脈弁に増殖性病変を引き起こし、結果として僧帽弁の閉鎖が不完全になった病態のことです。主な症状は突然の歩行不全(足を引きずる)、急激な心不全症状や心雑音強度の上昇、発熱などで、85~90%が15kg以上の中・大型犬種に生じます。
弁尖に生じたゆうぜい様病変と重度の粘液腫様変性を心エコー検査だけで鑑別することが困難なため、診断に際しては総合的な評価が重要となります。
弁尖に生じたゆうぜい様病変と重度の粘液腫様変性を心エコー検査だけで鑑別することが困難なため、診断に際しては総合的な評価が重要となります。
機能性僧帽弁逆流
僧帽弁異形成
僧帽弁異形成とは僧帽弁の構造的な異常により血液が逆流してしまう病態のことです。
ゴールデンレトリバーを始めとした大型犬に好発する先天性奇形で、重度の場合は若齢でも重篤な心不全(主に左心不全)につながることがあります。心エコー検査を通じた僧帽弁装置の形態評価によって診断が可能です。
僧帽弁閉鎖不全の症状
僧帽弁閉鎖不全症はキャバリアキングチャールズスパニエルを代表とする小型犬に多く、早い場合は5~6歳ごろから発症し、加齢とともに悪化します。以下は年齢ごとに見た小型犬種における罹患率の推移(日本)、および主な症状です。
僧帽弁閉鎖不全の主症状

- 息切れ僧帽弁逆流によって左心系に容量負荷が起こり、うっ血性左心不全と肺水腫が引き起こされて呼吸が苦しくなります。病気が進行すると睡眠時や安静時における呼吸数も増加します。
- 運動不耐逆流が多い重症例では十分な血液が末梢組織に行き渡らず、運動・散歩を嫌がるとか動き始めてもすぐにバテるといった前方不全の症状を示すようになります。
- 発咳併発した気管虚脱によって咳が引き起こされる場合があります。主気管支への圧迫による咳は特に「雁の鳴き声」と呼ばれます。
- 失神発作予後不良の因子で、脳への血流量が低下することで突然気を失います。また不整脈、咳、心房破裂に続発することもあります。
- 肺高血圧肺高血圧や三尖弁逆流による右心負荷が悪化した場合は、腹水貯留などのうっ血性右心不全徴候や体重減少などの悪液質に起因する徴候が出現する場合があります。
僧帽弁閉鎖不全症の原因
犬の僧帽弁閉鎖不全の原因としては、主に以下のようなものが考えられます。世界中で熱心に研究されていますが、未だにはっきりとした発症メカニズムは解明されていません。
体の小ささ?
体が小さいと胸郭の直径も小さくなり、心臓と胸腔のサイズバランスが崩れて弁が歪んでしまうのではないかと推測されています。
例えば北米74,556頭の医療記録を回顧的に参照した調査では、9kg未満の犬における死因には75%の割合で心疾患が関わっていたのに対し、9kg以上の犬においてはわずか25%だったと報告されています(
:Fleming, 2011)。また300万人以上の医療記録を対象として行われたメタ分析では、5%身長が低いと心臓に起因する死亡が50%高いという相関が報告されています(
:Paajanen, 2010)。
以下は犬の体の大きさを左右する遺伝子の一覧です。遺伝子が直接的、もしくは連鎖遺伝を通じて間接的に心臓の発達や弁膜の形成に関わっている可能性が伺えます(
:Parker, 2012)。
例えば北米74,556頭の医療記録を回顧的に参照した調査では、9kg未満の犬における死因には75%の割合で心疾患が関わっていたのに対し、9kg以上の犬においてはわずか25%だったと報告されています(


以下は犬の体の大きさを左右する遺伝子の一覧です。遺伝子が直接的、もしくは連鎖遺伝を通じて間接的に心臓の発達や弁膜の形成に関わっている可能性が伺えます(

犬の発生・発達に関与した遺伝子
- 第4染色体/STC2遺伝子同じ染色体上にあるNKX2-5遺伝子(心臓の発達に関与)が連鎖しやすい
- 第7染色体/SMAD2遺伝子弁膜のリモデリングと発達に関与
- 第10染色体/HMGA2遺伝子心臓の発生
- 第15染色体/SOCS2遺伝子IGF1Rに作用して心臓の成長に関与
- 第15染色体/IGF1遺伝子体の大きさや心臓の成長に関与
- 第34染色体/IGF2BP2遺伝子同じ染色体上にあるSENP2遺伝子(胚形成期における心臓の発生に関与)が連鎖しやすい
- 第37染色体/OBSL1遺伝子同じ染色体上にあるCHPF遺伝子(弁膜の発達に関与)が連鎖しやすい
疾患遺伝子?
特定の犬種において高い発症率が確認されていることから疾患遺伝子の関与が疑われています(
:O'Brien, 2021)。
例えば以下はハプロタイプベースで区分した系統発生群ごとに見た僧帽弁疾患好発犬種の一覧リストです。野生種および野生種と遺伝的に近いアンシエント(古代)犬種における報告はなく、近年になってから選択繁殖によって急増したモダン犬種に症例が集中しています(
:Parker, 2012)。
中でもキャバリアキングチャールズスパニエル(スパニエル/ハンティング)は慢性変性性房室弁疾患の好発犬種として有名で、10歳までに9割が発症し、11才齢以上で心雑音(左側心尖部収縮期雑音)を保有している割合が100%との報告があります。若齢で粘液腫様変性を発症したグループと、未発症~軽症のグループを対象とし、一塩基多型(single nucleotide polymorphism: SNP)と疾患の関係性をゲノムワイド関連解析(GWAS)と呼ばれる手法で調べたところ、イヌ13染色体(1.58 Mb region/20箇所)およびイヌ14染色体(1.68 Mb region/11箇所)において、疾患に関連している可能性がある遺伝子座が合計31箇所見つかったといいます(
:Madsen, 2011)。
少なくともこの犬種においてはこれら2つの領域における何らかの遺伝子変異がコラーゲン繊維、結合組織の構成、プロテオグリカンやヒアルロン酸の沈着を変化させることで発症率を高めているものと推測されます。
さらにメスよりもオスの方が若齢で発症するという報告もあることから、単一の遺伝子ではなく複数の遺伝子が絡み合って発症するポリジェニックなメカニズムが想定されています。

例えば以下はハプロタイプベースで区分した系統発生群ごとに見た僧帽弁疾患好発犬種の一覧リストです。野生種および野生種と遺伝的に近いアンシエント(古代)犬種における報告はなく、近年になってから選択繁殖によって急増したモダン犬種に症例が集中しています(

MD好発犬種と系統発生群

- 1:野生のイヌ科動物
- 2:アンシエント(古代)
- 3:トイチワワ, マルチーズ, パピヨン, ペキニーズ, ミニチュアピンシャー, シーズー, ビションフリーゼ, パグ
- 4:スパニエルキャバリアキングチャールズスパニエル, アメリカンコッカースパニエル
- 5:セントハウンドミニチュアダックスフント, ビーグル
- 6:ワーキングトイプードル, スタンダードプードル, ジャーマンシェパード
- 7:マスティフボストンテリア, ウェルシュテリア, ブルテリア
- 8:テリアヨークシャーテリア, ケアーンテリア, ミニチュアシュナウザー, ウェストハイランドホワイトテリア
- 9:マウンテングレートデン
- 10:レトリバー
- 11:ハーディング
- 12:サイトハウンドウィペット



さらにメスよりもオスの方が若齢で発症するという報告もあることから、単一の遺伝子ではなく複数の遺伝子が絡み合って発症するポリジェニックなメカニズムが想定されています。
寿命?
大型犬よりも小型犬の方が寿命が長いため、変性するのに長い時間を要する僧帽弁閉鎖不全症の発症リスクが高まるのではないかという指摘があります。
しかし大型犬おける細胞の老化が小型犬のそれよりも早いのだとすると、心臓の老化も連動して早まるため、発症リスクに差は生まれないはずであるという反論もあります。また小型犬より短命なジャーマンシェパードやグレートデンなど大型犬種における発症例や、小型犬でも4歳程度の若齢で発症する症例もあることから、単純に生きている期間が長ければ発症率が高まるというわけではないようです(
:Yang, 2018)。
しかし大型犬おける細胞の老化が小型犬のそれよりも早いのだとすると、心臓の老化も連動して早まるため、発症リスクに差は生まれないはずであるという反論もあります。また小型犬より短命なジャーマンシェパードやグレートデンなど大型犬種における発症例や、小型犬でも4歳程度の若齢で発症する症例もあることから、単純に生きている期間が長ければ発症率が高まるというわけではないようです(

僧帽弁閉鎖不全症の検査・診断
僧帽弁閉鎖不全の検査
犬の僧帽弁閉鎖不全症では一般的に以下のような検査が行われます。
MMVDの検査・診察
- 聴診心雑音強度と重症度におおむね連動した左側心尖部(僧帽弁領域)を最強点とした収縮期逆流性雑音/軽度の僧帽弁逆流で聴取されることが多く、経過とともに消失することがある楽音様雑音/軽症例に多い収縮中期クリックや重症例に多いギャロップ音などの過剰心音/右側心尖部で強く聴取される肺高血圧性の心雑音/交感神経緊張の亢進を示唆する速い心拍、期外収縮、上室性不整脈などの心拍リズム/肺水腫を示唆するラッセル音
- 心エコー検査初診時における心エコー検査は必須とされます。慢性変性性房室弁疾患に対する心エコー検査の目的は主に僧帽弁逆流の原因疾患の確定、併発疾患の評価、容量負荷(心拡大)の評価、その他血行動態や心機能評価などです。
- 血液検査ACVIMのガイドラインでは合併症の有無を確認するため初診時での一般血液検査実施を推奨しています。数多くのバイオマーカーが提唱されているものの、血液検査とその結果だけから短絡的に診断を下すことは難しく、あくまでも診察の補助として行われます。
- 血圧検査ACVIMによるガイドラインでは、初診時また必要に応じた血圧測定を推奨しています。高血圧症が合併している場合、持続的な高血圧状態によって腎臓、心血管、脳、眼底などに標的臓器障害が引き起こされます。一般的に行われる非観血的血圧測定法はオシロメトリック法もしくは超音波ドプラ法です。
- 胸部レントゲン検査心陰影・大血管陰影の評価、心血管系疾患に続発する肺実質・胸腔・肺血管陰影の異常を検出する際は胸部レントゲン検査が行われます。
- 心電図検査心電図検査は僧帽性P波やR波の増高、頻脈傾向、洞性(呼吸性)不整脈など負荷パターンや不整脈を検出する際に行います。
僧帽弁閉鎖不全のステージ
各種検査を通じ、ACVIMは僧帽弁閉鎖不全症の病期を以下のように区分しています。ステージAとBが「無症候期」、CとDが「心不全期」です。
MMVDのステージ(ACVIM版)
- ステージA構造的異常は認められないが、犬種的に心不全に進行するリスクが高い
- ステージB慢性心臓弁膜症が起こっていることを示唆する構造的異常が認められるが心不全の臨床兆候は認められない/僧帽弁閉鎖不全症の典型的な心雑音が聴取される
✓ステージB1:血行動態にわずかな影響を及ぼす僧帽弁逆流が認められる/心臓リモデリングは認められない
✓ステージB2:血行動態に重大な影響を及ぼす僧帽弁逆流が認められる/心臓リモデリングが認められる - ステージC構造的に異常が認められ現在あるいは過去において心不全の臨床徴候(呼吸数増加、落ち着きがない、息苦しそう、咳き込むなどうっ血性左心不全)を発現している/標準的な治療法で改善が見られる
✓ステージC1:急性期/入院治療
✓ステージC2:慢性期/通院治療 - ステージD心不全の兆候が認められステージCの標準的治療法に対して難治性である
✓ステージD1:急性期/入院治療
✓ステージD2:慢性期/通院治療
僧帽弁閉鎖不全症の治療
僧帽弁閉鎖不全症の原因が慢性的な房室弁の変性である場合、治療の第一目標は内科的治療による症状の緩和と生命予後の延長になります。内科的な治療に反応しない難治性の症例では根治を目指した外科手術が考慮されます。
内科的な投薬治療
内科治療はあくまでも症状を抑えるための対症療法であり、根本的な原因である僧帽弁の構造的な異常を治療することはできません。粘液腫様変性の進行を抑制するための治療法は確立されていないものの、ACVIMではガイドラインを通じてステージごとに以下のような治療方針を提唱しています(
:ACVIM, 2019 |
:Atkins, 2009)。


ACVIM推奨の内科治療
- ステージAいかなる内科的投薬治療も食事療法も推奨されていません。疾患の徴候が見られる個体は繁殖ラインから外されます。
- ステージB1いかなる内科的投薬治療も食事療法も推奨されていません。6~12ヶ月に一度の定期的な検査により症状の悪化を早期発見するよう努めます。
- ステージB2心雑音強度が3以上、LA/AOが1.6以上、LVIDDNが1.7以上、VHSが10.5超という条件すべてを満たしたときが介入の理想的なタイミングとされています。エビデンスグレードが強いと判定されているのは心不全治療薬ピモベンダンだけです。食事療法(軽度のナトリウム制限)とアンギオテンシン変換酵素阻害薬(ACEI)に関してはグレードが弱と判定されており、β遮断薬とスピロノラクトン(アルドステロン拮抗薬)に関しては定期的に使用することは推奨されないとされています。
- ステージC1血行動態の改善を目的としてフロセミド(利尿薬)、ピモベンダン、酸素供給、腹腔穿刺、胸腔穿刺、抗不安薬、ドブタミン、ACEIなどの使用例があるもののどれもエビデンスグレードは低く、専門家による逸話というレベルです。
- ステージC2改善した血行動態の維持に加え、病期の進行を遅らせたり生活の質(QOL)を向上させることを目標とした治療が行われます。食事療法では慢性腎不全を併発していない場合はタンパク質の摂取量が減らないよう注意し、食塩(ナトリウム)の摂取量を抑えることが推奨されています。また低カリウム血症が見られる場合はリン、心不全や不整脈が進行した場合はマグネシウムやオメガ3脂肪酸を摂取することが勧められています。
- ステージD1ステージC1の治療法を基本とし、より積極的な後負荷の軽減を目的としてヒドララジンやアムロジピンといった降圧薬の使用が考慮されます。目標は動脈収縮期血圧を5~10%低下させることで、血圧を低下させないよう「動脈収縮期血圧85mmHg超 or 平均動脈圧60mmHg超」を目安にしながら慎重に経過を観察します。またドブタミンの併用も考慮されます。
- ステージD2難治性の場合、利尿剤の種類や用量、投与頻度、投与経路を変更してみます。エビデンスグレードは低いもののシルデナフィルやアムロジピンなどの使用例もあります。
外科手術
人工心肺装置の発達により小型犬に対して従来より安全に体外循環法を行えるようになったことから、心臓を切り開いて病変箇所にアプローチする外科手術の症例が増えています。しかし実施できる施設や専門医が限られており、また外科的に介入するベストなタイミングに基準がありません。費用が高額なためかなり限定的な患犬に対してのみ適用される治療法です。
近年は設備を整えた動物病院が増えていますので、最寄りの医院に関しては「僧帽弁形成術」「僧帽弁置換術」「僧帽弁修復術」などで検索して探してみてください。
獣医師法の広告規制により費用を明記していない病院が大半ですが、入院費用、入院中の検査費用、手術実費を合わせると多くの場合100万円以上かかります。

獣医師法の広告規制により費用を明記していない病院が大半ですが、入院費用、入院中の検査費用、手術実費を合わせると多くの場合100万円以上かかります。